巻上公一と寳示戸亮二の傑作デュオアルバム好評発売中!
over that way

方向はあっち

英語 OVER THAT WAY ロシア語 IDU TUDA

2002年10月ロングアームスより発売 (国内ディストリビュートDisk union)

CD番号CDLA02034

 Song titles

1.万事良好 2.こっちから見ると 3.あっちは知らず 4.ふたつの舌の真実 5.いくえ知らずの歌 6.歴史はそこらに散らかっている 7.鳥ではないカエルでもない人生 8.日本的振動 9.率直な2階の伝説 10.言語はいつも落ちていく 11.もっとあっちへ

時々誰かが質問する
そんな声を出して壊れないか
そりゃそう思うことはしばしば
腫れたり掠れたり血が出たり
しかしそんなことより
生まれてくる音を探求してしまう
声の宇宙は広大 表現は無限
常識の破壊はあっても声は宮殿を建築する
ある日
ピアニストの宝示戸亮二から連絡があった
モスクワに一緒に行かないか
願ったり叶ったり
以前からモスクワに恋いこがれていたのだ
宝示戸はピアノを偏愛するあまり
内部にはがらくたを吊り下げ
発砲スチロールや櫛や定規を放り込み
執拗な愛撫と狂おしい打撃で抱擁する
類い希なピアニストである
面白いことになりそうだ
予感は的中
しかもDOMという会場はいい雰囲気だ
ニコライの紹介が観客を熱くさせる
おかげで声の宮殿からは七色の蛇が現れた
様式、破壊、叙情、嘲笑、ホーメイ、物語、爽快
ちろちろと舌をだしてピアノに絡みついたり宇宙を旅したり
もう最高の気分だった
そういえば
道案内してくれた鈴木さんは
すぐそこにあるDOMに行くのに地下鉄まで遠回りした
ぼくは言った方向はあっち
はやくまたモスクワに行きたいよ

巻上公一
 

WEB版ライナーノート

ドムの声たち

鈴木正美

本アルバム『方向はあっち』がライブ・レコーディングされた場所「ドム」はモスクワにある。このドムについて、かつて私は「ユリイカ」(2000年12月号)に書いたことがあるので、その一部を再構成して本CDが出来上がるまでの経緯を紹介したい。 文化センター「ドム」は地下鉄ノヴォクズネツカヤ駅からほど近く、ボリショイ・オフチンニコフスキイ横丁から、私道のように見える一角に入った一番奥にある。鉄の扉があるため、一見したところ、中に入ってはいけない場所のようだし、仮に中に入ったとしても、一番奥にある建物には看板もない。地下鉄駅から一番近いコースでたどり着くにも、古い建物のアーチをくぐり抜け、中庭を横切らなければならないので、モスクワっ子でもドムを見つけるのは難しい。いかにも秘密の場所にふさわしいロケーションである。

ドムは昔シナゴーグがあった所で、それを改築し、1999年5月から営業を始めた。コンクリートの壁に皺のよった新聞の模様をプリントした空間はとてもすてきだ。ジョン・ゾーンや大友良英をはじめとして各国からの前衛的なミュージシャンがこのライブ・スペースに次々と訪れ、ロシアのミュージシャンたちと競演を繰り広げてきた。週に5日間企画されている音楽の演目ばかりでなく、会場内では一週間ごとに美術作品展、写真展が開催されている。もちろんミュージシャン以外にもドミトリイ・プリゴフのような詩人やアンナ・アリチューク、レオニード・チシコフといったパフォーマーもステージに立つことがある。2000年4月には5日間のドミトリイ・プリゴフ・フェスティバルやセルゲイ・クリョーヒン国際フェステイバルも開催された。

 モスクワのニッティグ・ファクトリーとも形容されているドムに私が2度目に訪れたのは2000年11月、宝示戸亮二&巻上公一のライブのためだった。この二人の強力なパフォーマーのためにオーガナイザーのニコライ・ドミートリエフが用意したプログラムが「丸呑み、あるいは危険な声帯」である。11月1日から2週間にわたって行われたこのプログラムの初日を二人が飾り、以後はプリゴフ、チベットのナンジャル・ラモ、トゥヴァのニコライ・オオジャール、ヴャチェスラフ・ガイボロンスキイ(トランペット)&リーナ・ペトローヴァ(アコーディオン)、モーラ・シーラ&ヴォルコフのデュオ「ヴェルシキ・イ・コレシキ」、ウラジーミル・レジツキイ(マルチ・リード)&カーチャ・ゾーリナ(ヴォーカル)といったまさしく「危険な声帯」の持ち主たちがパフォーマンスを繰り広げたのである。

 ドムに集まるのは現代音楽、前衛ジャズ、現代アートに関心を持つ、少し年齢の高い知的な人々が多いようで、宝示戸&巻上デュオの演奏を聞きに来た150名ほどの聴衆もデュオの音楽に真剣に耳を傾けていた。演奏中に携帯電話も鳴らず、タバコもほとんど吸わない、というライブ・ハウスはモスクワでもここだけではなかろうか。フェスティバルの内容の一部はドム・レーベルによるオムニバス版でも聞くことが出来るが、これらの中から巻上&宝示戸デュオのライブがすべてCD化されたということは、彼らの演奏がドムの聴衆をもっとも魅了した結果だと言えるだろう。

この度のCD化にあたって、巻上さんからラーナーノートを依頼されてから漠然と考えたのが、この時ドムという場で二人の声と聴衆の内なる声が重なり響きあうイメージだった。思いつくまま、オリジナルは直接英語で書いた。以下はその日本語訳である。

(2002年8月26日)

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」

松尾芭蕉「奥の細道」

銀河の星々よりも多くの、そしてガンジス河の砂よりも多くの声たちが、この地球をとりまく大気の中をさまよい漂っている。声もまた旅人なのだ。その声とは、古代から僧侶が唱えてきた真言、平原で歌う人の祈り、森の中で囁かれる恋歌といった言霊たちだ。全身全霊をかけて発した言葉には魂が宿る。言霊は何千年たっても消えることなく大気中をさまよっている。真の声は旅人なのだ。真の声を知っている音楽家はこうした言霊を霊媒となってキャッチすることができる。そして、それを自身の声や身体で表現する時、すばらしい即興音楽が生まれる。巻上公一と宝示戸亮二はそうした霊媒なのだ。 巻上は単に声を発しているのではない。単純に声を出しているだけなら彼の声帯はとっくに破壊されているだろう。言霊が彼の身体を要求し、彼の声帯を可能な限り自由に解放しているのだ。だから彼の身体そのものが声となる。宝示戸の身体もまた同様のものであり、彼の演奏するピアノもまたその身体の一部と化しているのだ。オシップ・マンデリシュタームの詩についてナジェージダ・マンデリシュタームが語っていることも同じことを意味している。「私は、詩はつくられる以前にもうすでに存在しているのだという感じをもつようになった。すでに存在していて、どこからともなく中継されてくる、そしてだんだん言葉の形をとっていく調和のとれた意味的統一体を懸命にとらえ、それを発現していくことに詩作の全過程は集約される」。音楽家たちもまた旅人である。旅人たちが出会い、複数の声が重なるためには特殊な場所が必要だ。巻上と宝示戸の声と身体が出会うためにはモスクワが必要だった。二つの声がドムという場所にたどり着き、空中をさまよう旅人である声が、音楽家たちの身体にしばらく宿る。そしてドムに集まった人々の声・身体と一体化したからこそ、今回のようなすばらしい即興演奏が成立したのだ。コンサートの後、声たちはふたたびモスクワの大気の中に融け込み、いつかまた新たな身体と場所に出会うことになるだろう。その場所がまたドムであることを願っている。


LINK
鈴木正美さんがユリイカにお書きになったエッセイはこちらにあります。
http://www.wakhok.ac.jp/~masami/dom


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このCD「方向はあっち」の商品番号は、 K005です。


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